昭和56年2月27日 朝の御理解                   中村良一

御理解 第25節
「信心は大きな信心がよい。迷い信心ではいかぬ。一心と定めい。」



信心は、大きな信心が良いというのは、んー、大きな、あー、宗教、大きな教団がよいと言うのでは勿論ありません。ね。例えば、大きな教団とか宗教とかといや、仏教とか、キリスト教といったような、大きな宗教がありますけれども、んー、けれども、そういう大きな信心というても、んー、いつでしたか、楠木太りの信心という事を頂いたんですけどもね。楠木太りの信心、普通の木は、そう大して大きくなりませんけれども、楠木は、大きくなる。大きくなれれる。ね。だから、その、大きくなれれるというても、んー、ただ、大きくなるというのではなくて、いうならば、本当に、人間が人間らしゅう、おかげを頂きながら、それでいて、大きくなれれる内容を持った宗教でなからなければならんという事。楠木太りのおげを頂くためには、えー、楠木正成という事を頂いたことがある。楠木正成というのは、やはり、楠木太りという事でしょうけれども、正成という、正しく繁っていくものでなからにゃいけない。ね。
えー、昨日、長崎で、あの、ローマ法王が見えておるので、あの、野外のミサがありましたが、何万人の人が集まって、あまりに寒かったもんですからね。三百名からの病人が出たと。倒れる人が出たと。そうでしょう、三時間も、四時間も、あの寒さ空の中に、あの、それを、時間を待つと言うのは。テレビで、そういう報道を聞かせてもらいながら、それを、キリスト教自体、何と考えておる、何か考えておるだろうかと。ね。例えば、金光教的な考え方であったら、もう本当に、えー、そうですね、その、その長であられる法王という方は、もう、身の置き所も無いように、今、神様にお詫びをしぬきなさらなきゃないのじゃないだろうかと。自分が、日本に来たために、それこそ、雨を持ってきて、それこそ、異常の気候が、異常寒気がね、えー、冬にでも感じないような寒さやら、大雪降りやったりしておる。ね。いうならば、御道の信心で言うなら、生きた天地を、生きた心で交流する手立て。ですから、天地が異常になるとさえ言われるような、あー、生きた内容を持っておるのに、キリスト教辺りは、何千年の間に、大きくなったというのは、そういうものではなくて、それこそ、もう、それこそもう、陰惨というか、陰険というか。もう、血を流しながら広がった宗教だという事です。聞いておって、ぞっとするような感じがするのです。
昨日、私は、長崎でミサがあるという、そのミサという、みんなが使うけれど、私も、簡単に、ま、祈りと言うような意味であろうかと思うておったけれども、詳しく知りたいと思うて、ミサということは、どういう事でしょうか、高橋さんというて、教えて、食事の時に、まぁ、聞かせてもらったら。さぁ、僕も良く分かりませんからというて、百科事典ですかね。あの事典を、おー、あの、調べてもらいましたら、大変、色々な意味が、今も申しますように、それこそ、おー、血を流しながら、キリストが十字架上に、みんなの、言うなら、難儀な氏子の為に、罪多い人間のために、自分が身代わりになって、その、十字架上に上がられたといったような意味と、勿論、祈りという意味の事もあるそうです。それを聞いておってから、何か本当に、まぁ、金光教にご縁を頂いておって良かったなぁとこう思うのです。例えば、長崎の二十六派の聖人なんかの像が、今も残っておるが、例えば、そういうような、いうなら、事から開けてきた宗教。こりゃ、大きな現代宗教ですけれども、これではね、人間の幸せはどこに、人間の幸せ、いうならば、幸福とか、平和とか、愛とかというてもです。ね。あぁ、もう、人間として、耐えられない宗教だと思いますね。そう言うところを通らなければ開けない宗教。そういうとこを通る事を、むしろ、いうならば、ひじり、聖というような言葉使うような宗教。もう、全く、金光教の根本、助かりの理念というものが違う。特に合楽で、今、私が申しております、合楽理念というのは、人間が人間らしゅう生きていきながら、しかも、天地と交流できる、合楽し合えながら、そして、そこから生み出されてくるおかげというのは、人間を幸福にせずにはおかんという働きのみしか無いというのです。ね。金光教の歴史を、ほんなら、百年の歴史を振り返ってもても良いですけれども、様々な、やはり、難行苦行的な修行をして、道が開けたというような、あー、教会も、沢山ございますけれども、ね。それは、結局、ただ、難行苦行であって、教祖のご信心には沿わないもの、ね。火や水の行じゃない、家業の行と、心行と仰せられる、教祖の、それにもとった、いわば、修行を分からずにしてきたというだけであって、ここに、いよいよ、分からせていただく、合楽理念によって、金光教の信心が、なるほど、前代未聞だなと、ね。いよいよ、宗教以前の宗教。人間が、本当に助かることのための宗教だなと、ね。その内容は、どこまでも天地をバック、天地と交流、天地との関わり合いを持って、ね。それこそ、昨日の御理解じゃないけれども、天地に親心ありというような、あー、ところを分からせていただいて、ね。ただ、親孝行な人が、親に奉仕する、仕えるような心で信心を進めていく。こんなに正しい生き方はなかろうと。しかもそれを、実意に、丁寧に、ね。と言うのが、ま、金光教の信心の芯のように言われますから、間違いなく、それを、実意丁寧に、生き生きとして、天地の間の関わり合いを大事にしながら、大きくなっていくという宗教。ね。しかも、どこの太郎やら、次郎やらというような言葉を使ってありますが。もう、どこの黒であろうが、白であろうが、きなであろうが。どこの世界中の隅々の人種に持っていって、それは、どうも理屈に合わん、そぐわないという事はない。ね。もう、みんなが、いうなら、金光教の信心の、んー、助かりの理念というものを聞かせて頂いたら、本当に素晴らしいという事が分かり、傾倒することであろうとこう思います。ね。それには、だから、本当の金光教の信心を持って、おかげを頂くという、ね。
昨日も、んー、昨日一昨日でしたか、(塩谷?)先生達が、あの、大和さんとご一緒に見えてから、あの、話しておられた中に、んー、どっか、大阪の田舎のほうに、えー、千人入るお広前のある、大きな教会が生まれたと。ね。沢山、ま、言うなら、お参りがあるという訳でしょう。それが、どういう事から、そういうゴヒレイの元が生まれたかというと、そこの先生が、信者のために、五千万円の、んー、保証に立たれたと。金光様の先生が。そして、その信者が倒産した。それでそれが、全部教会に掛かってきた。あー、まぁ、教会長先生としては、ま、大変な、まぁ、心配、心痛だった。だから、まぁ、一生懸命神様に向かわれた。御霊様にも、先代の御霊様にもおすがりをなさったというわけ。ところが、ある時その、先代が姿を現されて、心配するなと言われた。そこから腹が出来た。それから、おかげを頂いて以来、その御霊様がもの言われると言うので、非常なゴヒレイを頂いて、今日、それこそ、千人も入るような大きなお広前が建立されたという話を聞きました。話を聞いとって、ほんなら、合楽の場合でもね。えー、私が、福岡の修行中の時分に、初めて御霊と話し合いが出来たという話が、私の過去の信心にありますよね。けれども、今から考えてみると、あれは、天地のトリックであったんだと。本当に、御霊との話し合いでなく、ただ、天地金乃神様の、例えば、先祖を大切にする、親を大切にするといった様な事を、まぁ、分からせて下さることのための、言うなら、その事を宣伝して下さるための、いうなら、神様の御演出であって、あれはトリックに過ぎなかったんだと。これは、教祖の神様の、ご信心始めの事をいうても同じ事。はじめの頃、いうならば、あー、川田家ですかね、の、あの、ご先祖が現れて、えー、教祖の、戌年ですから、戌年さん、あんたが、川田家に養子に来てくれたおかげで、先祖が助かるというて、御霊様がお礼を言われる場面が、伝記の中にあります。ね。けれども、そういう、ほんなら、段々、信心がお進みになられて、もう、ご晩年の頃、御霊関係なんか、一つも仰ってないですね。そういうことは、一つもね、あの、いわば、こらまた、話が少し、横道へそれて行きよりますけれども、とにかく、もうとにかく、人間を幸せにせずにはおかん、それこそ、億年かかっても、いうならば、円うせずにはおかんと言う働きが、様々な天地のトリックによって、まぁ、奇跡というか、不思議な事が起こったり、あったりするような事があるわけです。ね。ですから、金光教も、そういう程度のところで留まっておって、御霊様から、お知らせを頂いたけん、助かるといったような程度の信心では、これは、大きくはなれないです。もう、その場限り、その先生が居られる間だけです。どこまでも、天地の大恩を説き、天地の道理を分かり、それこそ、その天地の大恩が、それをおかげとして受け止めれれる手立てを、いよいよ、ね。おかげと分からんから、神のおかげを知らんから、互い違いになるというようなこと。例えば、昨日の、法王の見えた、ここ、数日間のことは、もう、それこそ、ね。互い違いになっておる日々を、私は、テレビで毎日見せていただきながら、ね。えー、本当に、ま、金光教の信心とは、根本的に違う。まぁ、それが良いという人は、それで良いでしょうけれども、まぁ、金光教の信心を頂いておって良かったな。合楽にご縁を頂いておって良かったなぁという事を、いよいよ、感じるわけであります。ね。そこでね、ほんなら、金光教の信心も、どこまでも、楠木太りの信心でなからなきゃならん。ためには、楠木正成でなからなければならない。ね。正しく繁る、それはどこまでも、御霊様であったから、こうやって修行したから、血の出るような信心したからといったような事ではなくて、どこまでも、天地の道理に基づいて、そこから、生き生きと天地との交流が始まって、ね。そこから、生み出されてくるおかげをいただいて行くという事が、一番間違いなく、大きくなっていけれる、まぁ、根本だという風に思うです。ね。それにはね、今も申します、まぁ、実意丁寧。
これも昨日、あの一昨日の、大和さんところのお祭りを仕えて帰り道でした。自動車の中で、若先生が、もう、それこそ、まぁ、しみじみと言うんですよ。もう、とにかく、実意丁寧にならなければ、金光教は、本当の繁盛にはなりませんなぁと言うて、しみじみ話すんです。いや、今日の、大和さんところと言い。誰さん、彼さんどんのところと、まぁ、合楽で実意丁寧な信心を続けて、そして、日まさり、月まさりにおかげを受けておられる方達の、例を上げてです、「ほんなこつのうや、どげな素晴らしい、キラキラ光るごたる信心しよるかと思うても、スパッと、その信心が中絶したりするようなところじゃ、おかげば頂いておっても、日まさり、月まさりになっとらんもんの」と言うて、親子で、車の中で話したことでした。ね。だから、こらもう、その、どんなに合楽の信心がどうと言うてもです。実意丁寧を以って信心が貫かれなければ駄目です。大きくなれないです。ね。そしてです、そのおかげを、これも、二十五日の研修の時に、高山さんが発表しておられましたように、神様にお知らせを頂いた。左手に信心の玉を頂いた。お取次ぎを頂いたら、親先生が、右手にも頂くようなおかげば頂かなければいけないのと言われた。という発表をしておられました。ね。勿論、左手とは合楽のことでしょう。合楽で、はぁ、あちらの信心は素晴らしい、また、合楽の信心をしみじみと心に感じながらに生活が出来ると、例えば、言うても、ほんなら、素人が、信心の浅い者が、無い者が、なるほど、信心しよりなさったからおかげ頂きなさったという。右手に、玉を頂かなければいけないという事です。どんなに、合楽で有難い、勿体ないというておる信心を頂いておる。言うなら、左に信心の玉を頂いたのでしょう。ね。それを、ほんなら、右にも頂くということは、ね。両手に頂くということは、ね。いうならば、おかげの実証です。いや、家が立派になったと、ね。家庭が円満である。本当、あそこは病気いっちょしなさらん。と言ったようなおかげをね、右手にいただき、左手に合楽の信心を頂いてです、ね。初めて、ね。まぁ、いうならば、なるほどと人も着いてくるだろう。合点も行くだろうと。そういうおかげを頂かなければいけないねという話を、高山さんが発表しておられました。まさしくそうです。そして、いわゆる、正しい信心、間違いのない信心。ほんなら、金光教の中でもです。ただ、どんどん人が助かるというだけで、なら、人が育っておるといったような教会は無いという事実です。ね。例えば、合楽の場合なんかは、いうならば、人が育っておる。神様が、一番求め給う。神様、人を求め給うという、その人とは、どういう人なのか。私は、取次ぎ者だと思うですね。ね。その取次ぎ者、神様の、手代わりにも、手にも足にもならせて頂こうという人達が、育つという事なんです。ね。それを、例えば、合楽の場合は、それが、あの、段々出来ていっておる。ね。金光教の信心の、一番正しいところを、間違いなく伝えていく。しかもそれを、合楽、一つの理念として、お互いが教導を受けておる。だから、その理念に基づく力こそ、一番正しい。しかも、正しいというその印は、天地との繋がり、天地との交流。そこから生み出されるおかげというものを、いよいよ現していってこそ、初めて、私は、ね。大きな、なんぼでも大きくなれれる内容。血を流しながら大きくなってくる。数千年のキリスト教の歴史を、言うなら、紐解くならば、ずーっと、戦争から戦争に明け暮れておるち言う。しかも、宗教人同士が。どんなに考えても、ただ、平和の愛のと言うたってです。ね。その実が一つも挙がってないという事なんです。だから、いうならば、本当の天地の大恩という事が分からんから、互い違いになっておる。なら、今度、法王が見えた数日間が、それであったという風に思います。ね。そういう、戦いながら、血を流しながら大きくなっていくというものではなくてです。ね。それこそ、日々、生き生きと天地との交流を、言うなら、合楽では、天地のリズムという。そのリズムを聞きながら、大きくなっていく。また、大きくなっていく内容を持っておる。どこの誰にでも、本当に分かってもらえば、なるほど、金光教の信心が素晴らしいという事を分って貰いながら、ね。しかも、どういう習慣の違った、黒であろうが、きなであろうが、白であろうが。誰でも、人間である以上、ね。助かっていけれる、その手立てが説いてある、教祖の御教えである。を、です、いよいよ、大きな物にしていかなきゃならない。大きな信心が良い。大きくしていけれる内容を持った信心が良いという事になるのじゃないでしょうかね。どうぞ。